岩倉城

別名-  付近住所 愛知県岩倉市下本町城址 現在-
2011/8/29 碑・案内板アリ 日本城郭大系


織田氏
伊勢守系
 岩倉城は文明11年(1479)頃織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。敏広はこの城によって、尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、下四郡(愛知・智多・海東・海西)を支配する清洲城の織田大和守敏定に対し武威を示し、当時の尾張では清洲城と並んで、もっとも重要な城であった。
 城跡は東西約91m、南北約171m、標高10m台地上にあって、内外二重堀があったといわれ、城跡の南側には外堀とか丸の内といった地名も残されている。
 岩倉城は弘治3年(1557)織田伊勢守信安が末森城主織田信行(信長の弟)と同盟を結んでいたということで、信長に攻められ、その後、永禄元年(1558)の浮野合戦で敗れ、翌2年3月遂に落城した。
 本丸跡の「織田伊勢守城址」の碑は安政7年(1860)に建てられたものである。

標高8〜10mの自然堤防上に立地する岩倉城は文明の頃、織田敏広により築かれ終わり半国の拠点として、約80年間栄えました。永禄2年(1559)織田信長に攻められ落城した岩倉城跡からは、城の規模など、推定であるが一部解明されました。
昭和62年度から3年間にわたり、愛知県埋蔵文化財センターにより発掘調査され、6条の堀跡など古文書の記述と大体一致されたが調査面積は城跡推定地からすれば、ほんの一部分であり今後に期待されるところであります。ただ、従来の通説を覆し五条川東岸まで城域が広がる遺構も検出され、強固な城であったことが解りました。堀幅は20mを超え、深さも3m以上もある大規模な堀跡も確認されております。
外堀や、内堀からは前述の発掘調査で碗や皿、中国製の青磁、白磁、貯蔵具の常滑焼の瓶や桶など見つかっております。珍しいものでは、つげの櫛や下駄、茶道具、呪術関係資料として獅子頭、人形、呪符木簡など注目されるものも発掘されております。
総見記は岩倉城攻めの記録で「信長が二の丸まで押し詰めて・・」とあり、古文書で記述されております。五条川の東北角から堀に水を引き入れ、掘割とし、西大手門には土塁が築かれ、本丸館は平屋造りで、間口21間(約38m)奥行13間(約23m)の広大な建物で2重の望楼を備えており、3里先からでも大屋根が望めた、という記述も残っております。信長は岩倉城を攻略し、その翌年桶狭間で戦勝、小牧山城、安土城へと天下統一へと進むことになる。

     


HOME